No.71【コラム】越えられない国境はない:フランス、マジノ線
四方を海に囲まれた島国と異なり、大陸の国というのは、どこから敵が侵攻してくるかわからない状態に晒されてきた。そのため、国境にしっかり線を引こうと考える者も多くいた。古くは、中国の万里の長城が良い例であろう。
万里の長城
1918年に停戦となった第一次世界大戦。この戦いで、勝者側に立ったはずのフランス。しかし、国土が戦場となったフランスの傷は深く、甚大な被害に加え、ドイツの脅威もしっかり人々の心に根を下ろした。(第一次世界大戦については、No.6、No.13、No.61、などもご参照ください)。
自然、次の侵攻に備えて国境に線を引こうという動きが高まり、時の陸軍大臣アンドレ・マジノにより、対ドイツ要塞線の建設が提唱された。
通称マジノ線と呼ばれるこの要塞の連なるラインは、フランスと、ベルギー東部、ルクサンブルグ、ドイツとの国境線に建設された。
地図の右方、黄色のラインがマジノ線
しかしながら、実際には、複雑な地形のため戦車が通れないと見込んでいたベルギー・アルデンヌを越えて、ドイツはフランスに侵攻してきた。1940年5月10日のことであった。
難攻不落であると思われていたLigne Maginot(マジノ線)は、今では「いざと言うとき役に立たない物」というニュアンスを持つ言葉となってしまった。
あまり人の口に上ることもなくなってしまったこのマジノ線だが、わずかながら、ドイツと直接戦闘を交えた場所もある。例えば、マジノ線最西端に近いVilly La Ferté (ヴィリー・ラ・フェルテ)村の要塞である。
1940年5月16日から19日にかけて、ドイツの侵攻を妨げようと勇敢に戦った兵士たちだったが、痛ましいことに、107人が、この要塞で窒息死による最期を迎えた。
このラ・フェルテ要塞は、ドイツ軍の手に落ちた唯一のマジノ線の砲台であった。
今では、訪ねる人も滅多になく、のどかな田園の中に傷だらけの身体を横たえ、地平線を見下ろしている。
マジノ線建設に関しての法律に、フランス大統領ガストン・ドゥメルグが署名したのは、今を遡ること、丁度85年前の1930年1月14日のことであった。
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筆者
フランス特派員
冠 ゆき
1994年より海外生活。これでに訪れた国は約40ヵ国。フランスと世界のあれこれを切り取り日本に紹介しています。
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