No.13【コラム】或る一兵士の記録―100年目の命日に

公開日 : 2014年09月24日
最終更新 :
筆者 : 冠 ゆき

 みなさん、こんにちは。No.6のコラムでも紹介しましたが、今年は第一次世界大戦勃発から100年を数えるということで、『Great War 14・18』と題されたイベントが、フランス、イギリス、ベルギーの各地で催されています。

また、100周年記念サイトも開設され、フランスでの催し物が紹介されています。

私の住むフランス、ノールパドカレー地方も、大戦の主要な跡をめぐるメモリアルルートを提案しています。

 戦争に関する話は、遠く重い話題に感じられて、私もなんとなく敬遠しがちなところがあったのですが、ヨーロッパの歴史の中に大戦が占める位置の大きさを感じるにつれて、避けては通れないものだと思うようになりました。また、関連する施設や建造物は、いずれも一見に値するものなので、是非、皆さんも機会があれば、訪れてみてください。

また、今日紹介する手記を読み、実は、それほど遠い話でもないということを実感しました。100年前、何十万人、いや何百万人といたであろう兵卒の一人について、その記録をどうぞお読みください。

1914-2014

100年、それは、思い出の小箱を開く理由に足るであろう。

祖父ジャンは丁度百年前、1914年9月24日、ランス南東での戦いで、神に召されたのだから。

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(c)Jean-Jacques ETIENNE

ジャン・エティエンヌ

(1881年11月8日 - 1914年9月24日)

ジャンは、1881年11月8日、ペリグーで生まれた。

祖父の戦死後、祖母の元に返ってきた軍隊手帖によると、ジャンは「身長1.67メートル、卵形の顔に、青い目、濃茶の眉毛、平凡な額」をしていたとある。中等教育を修了し、1902年にフェンシングを始めたが、水泳は出来なかった。

『1901年兵』に属し、1902年にペリグーで兵役につき、1902年11月15日歩兵第108連隊に編入されたのち、1904年9月18日、一旦兵役を解かれる。言い換えれば、21歳で21ヶ月の兵役に就いたことになる。その後1905年11月1日に予備兵となり、1927年には完全にその任を解かれることになっていた。

(この時期、私の父が1903年6月30日に誕生している)。

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(c)Jean-Jacques ETIENNE

ジャンは、1914年8月12日ペリグーに召集された。(当時、祖父は家族でパリ東部のガニーに住んでおり、祖母はそこで教職に就いていた)。

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(c)Jean-Jacques ETIENNE

歩兵第326連隊第30中隊に配属され、9月初めまで、コレーズ県のブリーヴで待機した。

その間交わされた書簡には、落ち着いた口調ながら、不安が述べられており、また、子供たち(1908年には叔父も生まれていた)へのキスを、という言葉が、繰り返し語られている。『愛しい人へ』と呼び掛け合うこの書簡は、軍隊用の通信カードに綴られたものだ。

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(c)Jean-Jacques ETIENNE

おそらく9月頭にシャンパーニュ地方へ派遣されたものと思われ、その頃のカードには、日々の難しさなどが記されている。

この9月初めは、エーヌ(訳注:パリ北東)からモゼル(訳注:アルザスの西)に掛けての前線だと思われる。この前線の各基地には100万人が従軍していたと言われている。有名な『マルヌのタクシー』が活躍したのもこの頃である。

(訳注:フランス軍がパリ中のタクシーおおよそ1300台を徴用し、マルヌの戦場に3000-5000人の補強兵士を送り込んだという実話を指す)。

ドイツ軍のそれ以上の進軍は免れ、パリは侵略されずに済んだ。

祖父の消息は、そのあと、看護兵による9月21日の記録に見ることが出来る。砲撃戦によって負傷した右脚の傷が原因となり、9月24日没。

まだ三十三歳に満たなかった。

負傷した戦場ははっきりしない。ランスの南東30キロほどに位置するサンティレール・ル・グランかスイップの辺りだと思われる。

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(ピンクの矢印は負傷した場所と思われる場所。緑の矢印は、埋葬された可能性のある墓地)

祖父はスイップの墓地に埋葬されたようだが、その後、共同墓地へ埋葬し直された可能性もある。歩兵第326連隊の冊子を詳細に調べれば、何か手がかりがあるかもしれないが。

祖父の名は、ガニーのフォッシュ広場にある慰霊碑、サンジェルマン教会の記念碑、更にガニー墓地の大慰霊碑に、それぞれ刻まれている。

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(c)Jean-Jacques ETIENNE

(ガニー墓地の慰霊碑)

1921年6月8日付け官報によると、陸軍省の命により、国のために戦死したエティエンヌ・ジャン兵(登録番号011990)に戦功賞が付与された。

『勇敢な兵士であり、野戦の開始時より雄雄しくその任務を全うした。サンティレール・ル・グランを前にして、1914年9月21日フランスのために没す』。

ブロンズの星を伴った戦功勲章にはそう記されている。

以上は、祖母から引き継いだ書類を簡潔にまとめたものである。

1914年の大戦100周年を記念して、ガニーの町では、「マルヌのタクシー」に関する展示が行われた。マルヌのタクシーは、現在フォッシュ広場と呼ばれるガニー市庁舎前から出発したからだ。現在この広場は、地下駐車場建設のため工事中だが、同時に考古学的調査も行われている。

2014年9月6日には、1914-1918年に戦死した兵士へ敬意を表し、「マルヌのタクシー」展示の開会式を兼ねた記念慰霊祭が行われた。その日のスピーチの中で、市長は、当時数千でしかなかったガニーの人口(現在の人口は4万)を考慮すると、その犠牲者数がどれほどのものであったか、それは『殺戮』と呼べるものであったと述べている。また、ガリエニ将軍の戦略である「マルヌのタクシー」の活躍により、どれほどドイツの作戦が揺らぎ、ひいてはパリ侵略を免れることとなったのかに言及した。(パリは1870年普仏戦争および1940年の第二次世界大戦で、ドイツの侵略を受けている)。

短いまとめではあるが、100回目の命日を迎えるにあたって、祖父ジャンを偲ぶよすがにしてもらえると幸いである。

2014年9月14日、ヴァンセンヌにて

ジャン-ジャック・エティエンヌ

(c)Jean-Jacques ETIENNE

ジャン・エティエンヌは、私の義理の曽祖父にあたる。この手記を綴ったのは、義父である。

今日曽祖父の命日に、彼の短い生涯を振り返り、この拙訳を記したいと思います。

筆者

フランス特派員

冠 ゆき

1994年より海外生活。これでに訪れた国は約40ヵ国。フランスと世界のあれこれを切り取り日本に紹介しています。

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