全国的にも希少価値の高い灘蔵「橋津藩倉」で港町の最盛期と時代の流れを感じる
こんにちは。東伯郡琴浦・鳥取特派員「miumiu」です。
なんぞかんぞブログで消費していないネタがようけありますが、湯梨浜町(ゆりはまちょう)の話題を中心になんぞかんぞ紹介したいと思います。ペコリ。
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珍しく秋晴れの気持ちのいい休日、鳥取県中部にある日本のハワイこと湯梨浜町(ゆりはまちょう)に出かけ古代ロマン馬ノ山山頂にそびえたつ「ハワイ風土記館」や戦国ロマン「馬ノ山展望台」を楽しんだら冒険心に火がついてしまった!! 「ハワイ風土記館」のふもとにある集落橋津(はしづ)のメインストリートを車で走りながら古い記憶を思い出しながら立ち寄りたいスポットをいくつか見つけたのだけど昔ながらの狭い道路で車を停めるところがなく無理でした。残念。ワタクシの冒険心の火......消火。しなかった!!
(古代ロマン馬ノ山山頂にそびえたつ「ハワイ風土記館」から眺める鳥取県中部記事)
(戦国ロマン歴史的古戦場にある「馬ノ山展望台」から眺める温泉湧き出る東郷池記事)
車を停めさせていただけるところを見つけ立ち寄ったのは、湯梨浜町(ゆりはまちょう)にある「橋津藩倉」
鳥取県に現存する唯一のもので江戸時代の最盛期には15棟の倉が軒を連ね最大で約5万俵の年貢米を収納していたと言われています。また、収納された年貢米は藩の船によって大阪に運ばれ鳥取藩の財政を潤していたそうです。(ちなみに、橋津は日本海近くにあり橋津川を通り東郷池にも行き来ができます)
橋津は、馬ノ山古墳群があることから古くから海上交通の要地だったようですね。
当時、多くの船番所や役宅が設けられ御蔵から北方の浜屋敷にかけての往来には、廻船問屋、米問屋、旅籠などが軒を並べてにぎわっていたんだそうですよ。
残念ながら明治45年国鉄山陰本線の開通により海運業は次第に衰退し橋津も活気を失っていきました。
「橋津藩倉」に設置してある資料に写真つきで紹介されていますので、お出かけの際はチェケラください。
江戸時代、藩ごとにあった藩倉は明治に入るとその役割を終え、転用、売却、解体されていったそうです。
資料を読んでいると時代の流れとはいえ最盛期たくさんあったであろう藩倉の行く末に切なささえ感じてしまいました。ちなみに、全国的に残っている藩倉遺構は盛岡市、熊本市川尻、宇土市、そして橋津の4ヵ所です。
橋津には、写真の古御蔵をはじめ片山蔵、三十間北蔵の3棟が残るのみです。
夏場だったかな? 昔、梨の倉庫として使われていたような......ワタクシの古い記憶(笑)
港町でもある橋津は古くから歴史があり狭い道路を歩きながら町並みや歴史跡地などを楽しめるので、天気のよい休日また出かけたいなぁ(とはいえ、これからの鳥取県は極寒!! 暖かい服装で出かけましょう)
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新型コロナウイルス感染症も落ち着いた感がある鳥取県ですが、まだまだ油断できず感染拡大の恐れもありますので「ぜひ来てください!!」と大きく言えません。
また、新型コロナウイルス感染症が落ち着き鳥取県にお越しの際は、ぜひお立ち寄りください。
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「橋津藩倉」
・住所: 鳥取県東伯郡湯梨浜町上橋津710-2
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筆者
鳥取特派員
miumiu
鳥取県の魅力を鳥取弁で発信したいと思っていますのでヨロシクお願いします。
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