27. アレキサンダー大王も三蔵法師もやってきた!テルメズ周辺のいにしえの遺跡めぐり

公開日 : 2022年03月20日
最終更新 :

サローム(こんにちは)!
前回の記事(26. 国内最南端・アフガニスタン国境の町、日本人考古学者ゆかりの町テルメズへ)に引き続き、ウズベキスタン南部の都市テルメズ特集をお送りします。

テルメズの一番の観光スポットはやはり遺跡めぐり。世界的にはまだまだ知られていませんが、考古学的にきわめて重要な遺跡がテルメズ周辺にゴロゴロあるのです。主要な遺跡へは公共交通機関はなく、自力でまわるのは難しいので、私たちは知人に紹介してもらった運転手と事前に連絡を取ってタクシーをチャーターしてめぐりました。

前回の記事でも書きましたが、比較的温暖な気候であったこの地域は、古代から文明が栄えた中央アジアの中でも特に古くから人々が暮らしており、エジプト、メソポタミア、インダス、中国に次ぐ第五の古代文明がここにあったという学者もいます。
そして紀元前4世紀にはるばるマケドニアからこの地にやってきたのが、かのアレキサンダー(アレクサンドロス)大王。彼は大河アムダリヤ(ギリシャ語名オクソス)を南から北へ渡ったことで中央アジアへの征服を始めましたが、その渡河点といわれ要塞も築かれた地が、現在カンピルテパ遺跡として残っています。テルメズ中心部からは北西方向に40kmほど。

入口のプレートにも書かれている遺跡の別名がオクス・アレクサンドリア。アレキサンダーが築いた町として世界各地にアレクサンドリアという地名が残っていますが、ここはアムダリヤのアレクサンドリアという意味です。

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当時はここが城塞と居住区に分かれ、全体の規模は東西750m、南北200~250mだったといわれています。現在でもその遺構が残り、ときどき土器も見られます。日本の遺跡ならすべて回収され博物館などで保存されているであろう土器の破片があちこちに散らばっているのは、何とも驚きの光景。

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遺跡の端は崖になっていますが、現在は遠くを流れているアムダリヤの水がかつてはここまで来ていたとのこと。そしてここには船着き場があり、対岸との間を船が行き来していたそうです。当時は中央アジアの玄関口としてにぎわっていたのでしょう。

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この遺跡はアレキサンダーの死後もセレウコス朝、グレコ・バクトリア王国の元で栄えていましたが、クシャーナ朝(クシャン朝)の支配時に城塞としての機能が失われていったといわれています。クシャーナ朝はインドの王朝であると世界史の授業で習った方も多いかと思いますが、中央アジアにも領土を持っていたのです。

クシャーナ朝下では仏教が栄え、もともとここに根づいていたギリシャ・ヘレニズム文化と融合することで、仏教美術様式であるガンダーラ美術もこのとき現れました。仏陀の絵が描かれたり、仏像が作られたりしたのはこのときが初めてだったのです。現在はイスラム教徒が大多数のこの地でも仏教が信仰されていました。当時の状況を今に伝える貴重な仏教遺跡が、ファヤズテパ遺跡とカラテパ遺跡です。
いずれもテルメズ中心部から北西へ10kmほどの位置で、この遺跡に入るのは共通入場券2万5000スムが必要となります。

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まずはファヤズテパから訪問
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ファヤズテパ入口にある、日本の発掘調査プロジェクトが行われていることを示すプレート

ファヤズテパでは管理人さんが案内してくれましたが、日本のお坊さんがここに来てお経をあげたときの写真を見せてくれました。

ファヤズテパで目立つのが2世紀に建てられたといわれるストゥーパ。といっても外から見えるのはあくまで後から取り付けられた保護カバーですが、中の原物も見せていただきました。
置いてあったのは仏具のリン。ここに来られたお坊さんが置いていったのでしょうか。管理人さんはヤポンチャ・ピヨラ、日本の湯呑みと言っていましたが......。

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ここは僧院だったので、ストゥーパの他本堂や食堂、僧坊といった施設があったといわれています。といってももちろん説明してもらわなければわかりません。

この壁のくぼみにあったのが、ウズベキスタンで最も重要な考古学的発見のひとつといわれる、良好な保存状態で見つかった三尊仏。ガンダーラ美術の傑作といわれ、現在実物がタシケントのウズベキスタン国立歴史博物館で、レプリカはテルメズ考古学博物館で展示されています。これを発掘したのが、前回の記事でも紹介した日本人考古学者の加藤九祚先生でした。

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このガンダーラ美術が、シルクロードを伝ってはるか中国、そして日本にも影響を及ぼしたのです。私たちが日本のお寺で見たことのある仏像がはるかかなたのウズベキスタンの遺跡とつながっていたと想像すると、不思議な気がしませんか?

ファヤズテパ遺跡から南方1kmのところにあるのがカラテパ遺跡。中央アジア最大の仏教センターがここにあったといわれ、あの三蔵法師(玄奘)も中国からインドへの旅の途上にここに立ち寄ったとされています。

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屋根が取り付けられ保護されている大きなストゥーパ

タクシー運転手は遺跡に到着するなり、「アムダリヤ、つまりアフガニスタン国境の方角へカメラを向けないでくださいね。兵士がすっ飛んでくるかもしれないので」と警告。そう、ここは国境沿いにある遺跡のため兵士たちの警戒区域になっているのです。これでも以前よりは緩くなった方で、前大統領の政権時にはせっかくここで発掘調査を予定していても兵士の演習があると入域許可が下りなかった、と加藤先生のご著書に書かれています。またソ連時代にはまさにこの場で軍事演習を行っていたそうで、土器に混じって時折薬莢も散らばっていました。あと何百年もすれば、この薬莢も遺跡からの貴重な出土品になるのでしょうか......。

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この遺跡で目立つのは、洞窟式の礼拝室や僧房。それも数個なんてものではなく、数十はあるでしょうか。ここの全盛期は2~3世紀といわれていますが、当時はさぞや多くの僧でにぎわっていたことでしょう。
仏像や灯明皿が置かれていたというくぼみがある洞窟もありました。

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これらの遺跡から少しテルメズ市街地寄りの場所に、ズルマラ・ストゥーパという仏塔も立っています。こちらも2世紀のクシャーナ朝下、最盛期の王であったカニシカ王のときに建てられたストゥーパ。高さは13m、現存するストゥーパの遺構としては中央アジア最大とのことです。
畑のど真ん中という絶好のロケーションで、風化に耐えながら堂々と立つ姿は迫力があります。

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ただ、いずれの遺跡ももっと発掘調査が必要とのことですが、コロナ禍の影響で日本からの発掘調査隊がしばらく来られていないとのこと。特にズルマラ・ストゥーパは現在倒壊の危機にあり、調査隊が来て早急に対策をとる必要があるとのことでした。一刻も早く調査隊が再訪し、研究や調査を再開されることを願うばかりです。

なお私の個人ブログでは、この記事では載せられなかったホテルやレストランなどの観光情報を載せています。旅行計画を立てられている方はこちらもぜひご覧くださいませ!
スルハンダリヤ州・テルメズ情報! - takumiの世界ふらふら街歩き

それではコルシュグンチャ・ハイル(また会う日まで)!


参考文献:
加藤九祚監修『偉大なるシルクロードの遺産』キュレイターズ
加藤九祚編著『ウズベキスタン考古学新発見』東方出版

筆者

ウズベキスタン特派員

伊藤 卓巳

根っからのスタン系大好き人間です。まだまだ知られていないウズベキスタンの魅力や情報を、サマルカンドより愛をこめてお伝えします!

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