天平の悲しいヒロイン達

公開日 : 2018年12月27日
最終更新 :
筆者 : 大向 雅

前回の御霊神社からのつづきになりますが、今回は少々文字が多いことをお許しください。

IMG_4584 (2).JPG

井上内親王は第45代・聖武(しょうむ)天皇の第一皇女として、県犬養広刀自(あがたいぬかいひろとじ)との間に生まれました。しかし、わずか11歳で伊勢神宮の斎王に任ぜられ、27歳になるまで宮中に戻ることなく奉仕されていました。

聖武天皇と光明子(こうみょうし)との間には、安倍(あべ)内親王(ないしんのう=女性)と皇太子の基(もとい)親王がおられ、広刀自との間には井上内親王と弟であり第二皇子の安積(あさか)親王がおられました。しかし基親王がわずか1歳で薨去されたので、皇太子のポストが空白になってしまいました。

次席の安積親王が皇太子にという流れが当然でしたが、当時政治権力を握っていた光明子の兄弟縁者が、なんと皇族出身ではない光明子を皇后にしたうえに、その娘である安倍内親王を立太子(りったいし=皇太子として定めること)してしまったのです。

これまでの日本の歴史を振り返ってみても、推古天皇を初めとする女性の天皇は何人もおられましたが、内親王が立太子されたことは慣例が無い初めてのことでした。それより何よりも第二皇子の安積親王がいるにもかかわらず、このような暴挙に出た藤原家に反発する声も多かったことは間違いないと思います。

このような暴挙を許すまじと、反対勢力が立ち上がろうとした矢先に、なんと安積親王が16歳という若さで突然亡くなられてしまったのです。死亡原因は脚気(かっけ)によるとのことですが、その死があまりにもタイミング良く突然すぎることから、藤原仲麻呂(なかまろ)による暗殺説もいまだに語り継がれています。

このことによって正式に安倍皇太子が誕生。井上内親王は、弟の安積親王の薨去によって、斎王の任を解かれて帰京されました。そして天智天皇の孫にあたる白壁王(しらかべおう)の妃となり、37歳という高齢出産で酒人(さかひと)内親王を出産。その後なんと45歳で他戸(おさべ)王を出産されています。ここまでは内親王としては決して華やかな人生とは言えないまでも、それほどの不幸ではありませんでした。

DSC04051_LI.jpg

一方では、東大寺建立を発願された聖武天皇から譲位された安倍皇太子が、第四十六代・孝謙(こうけん)天皇に即位されましたが、完全に藤原家に言われるがままの孝謙天皇はさしたる実績もなく、第四十七代・淳仁(じゅんにん)天皇に譲位、ご自身は太政天皇(上皇)に即位されました。しかし淳仁天皇どうにも反りが合わずに、天皇が持つべき権限を取り上げ、藤原仲麻呂ら重臣らと、袂を分かつことにました。

DSC09668 (2).JPG

自分の政治生命も脅かされそうになった藤原仲麻呂が、764年に起こしたクーデター「恵美押勝(えみのおしかつ)の乱」では、上皇軍の圧倒的武力により仲麻呂を殺害することで制圧。片棒を担いだ淳仁天皇を廃し、大炊(おおい)親王として淡路島に流刑とされた上皇は、第四十八代・称徳天皇として重祚(ちょうそ=一度退位した君主がふたたび即位すること)されました。が、しかしわずか6年足らずで崩御されてしまいます。

IMG_8821 (2).JPG

称徳天皇は生涯独身であり、また度重なる政変による粛清によって天武天皇の嫡流にあたる男系皇族が少なくなっていたためもあり、吉備真備(きびのまきび)や藤原百川をはじめとする群臣が評議し、天智天皇の孫にあたる白壁王(しらかべおう)が後継として指名され、770年10月に白壁王は62歳という高齢で第四十九代・光仁(こうにん)天皇として即位。それに伴い井上皇后に立后、そして他戸親王が立太子されました。

井上皇后は聖武天皇の皇女でありますし、白壁王との間に生まれた他戸親王は天智、天武両天皇の血を引く男性皇族の一人として十二分にその素質がありましたので、これですべてが報われたと誰もが思っておりました。

DSC07975.JPG

ところが772年3月のこと、井上皇后は光仁天皇を呪詛したとして突如として皇后を廃され、同年5月には他戸親王も皇太子を廃されてしまったのです。

そして翌773年1月には、光仁天皇の第一王子ではありますが、母親が皇族出身ではないので、皇太子の権利はなかったはずの山部王が立太子されました。

さらに、天皇の同母姉・難波(なにわ)内親王が薨去すると、内親王を呪詛し殺害したという罪で、井上内親王と他戸親王は庶民に落とされ皇族ですらない状態で幽閉。その後、二人同時に幽閉先で急死しされ、これによって天武天皇の皇統は完全に絶えてしまいました。

DSC04131 (2).JPG

その後、京では天変地異が続き、777年11月には光仁天皇が病床に倒れ、2月には山部親王も死の淵をさまよう大病になり、雨が降らず井戸や河川が涸れ果てたとのこと。これらは井上内親王の怨霊によるものと考えられ、内親王の遺骨を改葬し墓を御墓と追称。さらに平安時代に入ってからは内親王を皇后へと追号し、御墓を山陵と追称するなど、その名誉は回復されることとなりました。

DSC04539 (2).JPG

かなり簡単な解説となってしまいましたが、あまり存在を知られていない御霊神社には、このような壮絶な悲話があることを知っておいて欲しいと思います。

日の丸 (2).jpg

まもなく今上天皇が皇太子に譲位され、新しい年号に変わることで平成という一つの歴史が終わり、新しい時代へバトンタッチする歴史的瞬間に立ち会えることはとても意味深いですよね。これからも日本の歴史が未来永劫、続きますように。

【記載内容について】

「地球の歩き方」ホームページに掲載されている情報は、ご利用の際の状況に適しているか、すべて利用者ご自身の責任で判断していただいたうえでご活用ください。

掲載情報は、できるだけ最新で正確なものを掲載するように努めています。しかし、取材後・掲載後に現地の規則や手続きなど各種情報が変更されることがあります。また解釈に見解の相違が生じることもあります。

本ホームページを利用して生じた損失や不都合などについて、弊社は一切責任を負わないものとします。

※情報修正・更新依頼はこちら

【リンク先の情報について】

「地球の歩き方」ホームページから他のウェブサイトなどへリンクをしている場合があります。

リンク先のコンテンツ情報は弊社が運営管理しているものではありません。

ご利用の際は、すべて利用者ご自身の責任で判断したうえでご活用ください。

弊社では情報の信頼性、その利用によって生じた損失や不都合などについて、一切責任を負わないものとします。