閻魔大王が睨みを効かせる百毫寺

公開日 : 2018年12月13日
最終更新 :
筆者 : 大向 雅
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白毫寺(びゃくごうじ)は、奈良の春日山から南に連なる高円山(たかまどやま)の麓にある寺院です。

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715年に天智(てんじ)天皇の第七皇子である志貴皇子(しきのみこ)の山荘跡を寺としたのに始まると伝えられていますが、かつて付近に存在した石淵寺(いわぶちでら)の一院であったとも云われるなど、諸説あるので定かではありません。ただ高円山を東に越えた所に志貴皇子の陵墓があることから、あながち無関係ではないのかもしれません

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明らかなのは、鎌倉時代になって西大寺で真言律宗を開いた叡尊(えいそん)によって再興され、叡尊の弟子である道照(どうしょう)が、宋から持ち帰った宋版一切経の摺本の転読を行ったことから、一切経寺(いっさいきょうじ)と呼ばれ繁栄したということ。といわれてもチンプンカンプンで何のことやら状態ですが...(笑)

その後、室町から戦国時代には再び衰退してしまいましたが、江戸時代中期に興福寺の学僧であった空慶(くうけい)上人により再興されました。約200年の時が過ぎ、明治の初期に起こった仏教排斥運動などで、かなりのダメージを被ってしまったものの、さまざまな人々の尽力のおかげで現在の姿があります。

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本堂には阿弥陀三尊が祀られており、観音・勢至両菩薩は、膝をついて前かがみになりヨッコラショっ!っとまさに立ち上がろうとされている倭坐り(やまとずわり)という珍しいお像♪本来ならば阿弥陀様も来迎印を結んでお迎え準備をしておられても良さそうなのですが、上品上生印でしっかり瞑想中なので「まだ、そんなに慌てることはない...」ということなのかも知れませんね。

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その後ろには宝蔵(ほうぞう)。御本尊である重文の阿弥陀如来像は本堂ではなくこちらにお祀りされています。檜の寄木造(よせぎづくり)で、平安末期から鎌倉時代初期にかけて仏師・定朝(じょうちょう)によって完成された様式といわれる仏像で、とても迫力があって立派です。

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そして、御本尊よりも一際インパクトがあるのが、両サイドから挟むように閻魔(えんま)大王と泰山夫君(たいざんふくん)のお像です。閻魔大王や泰山夫君といいますのは、いわば冥界の裁判官として知れた方々。鎌倉時代に、日々の行いが悪い人間は死んだ後に閻魔大王の裁きで地獄に落とされるという説を、より庶民に分かりやすく広めるためにこのような像が多く作られたそうです。

カッと目を見開き、ものすごい形相で睨んでおられ、目の前に立つのがはばかられるほどの迫力。日頃の行いがとても良い私ですら、商売道具の舌を引っこ抜かれそうなので早々に退散...。

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また、本堂奥には不動明王や十王地蔵などと並び、石仏がたくさん置かれている石仏の路が造られています。

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弥勒さまでしょうか?ちょっとユーモラスなお顔に思わず和んでしまいますね。

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白毫寺の境内は、下からかなりの階段を上ってくるおかげで、奈良盆地が一望できます。東大寺の二月堂からの眺望に比べると、少々南側の景色が広がります。ちょうど興福寺の五重塔が目の前に拝めます(写真は中金堂が建設中のものです)

百毫寺は新薬師寺から徒歩10分くらいですから、ぜひお参りしていただき、早めに閻魔様にご挨拶しておくのも良いかと思います。

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