霊験あらたかなる霊山寺奥ノ院

公開日 : 2018年11月15日
最終更新 :
筆者 : 大向 雅
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霊山寺の歴史は飛鳥時代にまで遡ります。天智天皇が造営された近江京の時代に、右大臣を務めておられた小野富人(おののとみと?)という方がおられました。彼はかつて聖徳太子が隋の国へ遣わした、あの有名な小野妹子(おののいもこ)の息子さんです。

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672年に起こった壬申の乱(じんしんのらん)の後、大海皇子(おおあまのみこ)が天武(てんむ)天皇として即位されると、小野富人は右大臣の職を辞し、この登美山(とみやま)の地に住み、登美仙人または鼻高仙人(びこうせんにん)となられました。その後、熊野本宮(くまのほんぐう)にお参りした際に出現した薬師如来のお告げにしたがい薬師三尊を祀り、薬草を栽培し薬湯を設けて病人を癒したと云われています。

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奈良時代には、聖武(しょうむ)天皇の皇女、阿倍内親王(あべないしんのう)が病に臥せられた時に、天皇の夢枕に鼻高仙人が立ち、登美山の薬師如来の霊験を説かれました。さっそく当時もっとも信頼していた僧、行基(ぎょうき)を登美山につかわして祈願させたところ、皇女の病が平癒。そのパワーにあやかるため聖武天皇は行基に命じて霊山寺を建立させました。

その二年後に日本にやってきたインドの僧・菩提僊那(ぼだいせんな)が、彼の故郷の霊鷲山(りょうじゅせん)に似ていることから霊山寺と名付けられた...という話が伝わっています。ただ、この話は続日本紀やその他の正史には載っていないので、事実は明らかではありません。

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明らかではないとはいえ...菩提僊那は752年の大仏開眼のときに導師をつとめ、目に墨を入れた(つまり目玉を描いた)インドの高僧であり、このお寺に供養塔があることを鑑みると、あながち嘘とは思えないですね。

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さて、歴史はこれくらいにして、本堂から約1kmほど緩やかな坂道を歩いたところにある奥ノ院を目指します。景色は何の変哲もない一本道ですが、小鳥のさえずりを聴きながら歩くととても気持ちが良いです♪

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ひたすら歩いたところに、また朱が鮮やかな鳥居があらわれます。

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ここから奥ノ院に続く少し長めの階段を下りていきますと、いかにも神域に入り込むような空気が感じられます。

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川を越えた所にあるこちらが弁才天を御祭神とする奥ノ院です。実は弁才天をお祀りするようになったのは昭和に入ってからだそうですが、この場所の放つ空気は何ともパワーありそうな感じがいたします♪

まったく侮れませんね...。

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さて、また1kmの道を下ってきますと黄金殿、白金殿の向かい側の階段を少し上った所に、彩色の美しい三重塔が立っています。あまりにも彩色が綺麗なので再建かと思いきや、本堂と同じく鎌倉時代に建てられたもので、重要文化財に指定されています。内部の障壁画もかなり保存状態が良いとのことです。

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入り口を入ってすぐには本格的なバラの庭園(季節限定で開園)や、薬師湯が楽しめるお風呂屋さん、なぜかゴルフの打ちっぱなし場まで完備されている...霊山寺は常識では計り知れない凄いお寺なので、とにかく一度足を運んでゆっくりとお参りしていただきたいと思います。

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