後醍醐天皇の勅願所・如意輪寺
吉野で忘れてはならないのがここ、如意輪寺(にょいりんじ)です。
金峯山寺や吉水神社からですと直線距離はあまりありませんが、間には深い桜の谷がありますので、歩いて散策される方には結構なハイキングコースになります。
平安時代の中期、920年頃に真言密教の僧・日蔵(にちぞう)によって開かれたと伝わっています。
以後、歴史の表舞台に登場するようなお寺ではありませんでしたが、鎌倉幕府を倒し建武の新政を開始された後醍醐天皇が、足利尊氏と仲違いしたことによって京を追われて吉野に南朝の宮を定めた際に、勅願所(ちょくがんしょ)とされたのがこの如意輪でした。勅願所といいますのは、天皇や上皇によって国家安泰、五穀豊穣などを祈願するための寺社のことですから、こちらも相当なパワーを秘めていたのだと思います。
そして、ふたたび京に帰るという夢も叶わぬまま崩御された後醍醐天皇は、この塔尾御陵(とおのおのみささぎ)に眠っておられます。後醍醐天皇が病の床で詠まれた「身はたとへ南山の苔に埋むるとも魂魄は常に北闕の天を望まん」という歌の通り、一般的に南向きに石室への入り口である羨道(せんどう)を設けるところを、あえて北を正面とされているのも有名なお話です。
山門の正面にある本堂には御本尊の如意輪観音菩薩やお隣にある不動堂なども真言密教の名残がそのままありますが、江戸時代初期に浄土宗の寺院となっています。
境内は無料で散策できますが、せっかくここまで来たのなら拝観料を払って宝物館へ行かれることをおすすめ致します。建物の中に入ると椅子のようなベッドのような何やら不思議なものが置かれているのが目に入ります。実はこちらには御本尊の如意輪観音菩薩をモデルとした天井画が描かれていて、その仏様を仰向けになって拝むための台なのです。
他の寺院でも天井に龍の絵などが描かれていることは良くあることですが、このようにわざわざ寝ながら拝むというのはちょっとお目にかかれません。
他にも慶派の仏師による蔵王権現像や、後醍醐天皇をはじめとする南朝ゆかりの品々が展示されています。その中でもとくに有名なのが楠木正行(くすのきまさつら)の辞世の歌を鏃(矢じり)で刻んだとされる本堂の扉です。
こちらは太平記に出てくる桜井の別れという有名な話の石像です。1336年、後醍醐天皇の忠臣であった楠木正成(くすのきまさしげ)は若干11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「もし自分が討死にした後は後醍醐天皇のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族郎党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と別れを告げ、桜井駅で別れた後、足利尊氏の軍と湊川にて一戦交えて戦死してしまいます。
そして1348年12月、約束通り正行が父の仇である足利軍との戦いに出陣する際に後醍醐天皇陵に詣でた後、本堂の扉に「かへらじとかねて思へば梓弓なき数に入る名をぞとどむる」と決死の覚悟を刻まれたのがこの扉であったそうです。
残念ながら彼は四条畷(しじょうなわて)の戦いで足利軍の高師直(こうのもろなお)に惨敗。わすか23歳の若さでこの世を去りました。
奥には枝垂れ桜に囲まれた多宝塔が有り、桜の時期は大勢の人で混雑しますが、新緑の季節になると静けさを取り戻し、凄まじい南北朝時代を生きた人達の声をぜひ感じて欲しいと思います。
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