フランスのリヨンで、意外と知られていないリヨン市庁舎の内側

公開日 : 2020年05月18日
最終更新 :

【フランス リヨン便り n°22】

フランスのリヨンの町をローヌ川(le Rhône)とソーヌ川(la Saône)が流れ、リヨンの南端で合流し、地中海へと流れていきます。このふたつの川に挟まれた中州はプレスキル(Presqu'Île)と呼ばれ、リヨンの中心となる商業地域になっています。プレスキルにはふたつの主要な広場があり、南がベルクール広場(Place Bellecour)、北がテロー広場(Place des Terreaux)です。

リヨンの北に位置するテロー広場に面して、リヨン市庁舎 (Hôtel de Ville)とリヨン美術館(Musée des Beaux-Arts)が建ち、自由の女神の作者で知られる彫刻家フレデリック・バルトルディ(Frédéric BARTHOLDI、1834-1904年)の美しい噴水が広場の中央を飾っています。クロワ・ルースの丘の麓にあたる広場の北側にはカフェやレストランが並び、天気のよい日は季節を問わず、観光客やリヨン人でテラスがにぎわい、テロー広場はリヨンの観光名所のひとつになっています。

外出制限が発令される1ヵ月前、リヨン市庁舎を訪問しました。

リヨンを代表する歴史的建築物である市庁舎と意外と知られていないその内側をご紹介します。

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■テロー広場

リヨン市庁舎はクロワ・ルースの丘の麓に位置するテロー広場の東側、リヨンオペラ座が建つコメディー広場の西側にあります。

テロー広場は美しい長方形の歩行者専用の広場です。「テロー」という名は溝を意味するラテン語「Terralia」に由来しています。16世紀以前、テロー広場はリヨンの町の北の境界線となる城壁の外側にあり、その城壁に沿って「溝」が掘られ、ローヌ川とソーヌ川を結ぶ運河が流れていました。16世紀になって、フランス王で「民衆の父」と呼ばれたルイ12世がこの城壁をクロワ・ルースの丘まで移動させました。1512年のことです。こうして、テロー広場が城壁内におさめられ、リヨンの町に属するようになりました。1576年頃からテロー広場に豚肉市場が建つなど、庶民の広場としてにぎわっていきます。

17世紀、テロー広場に大きな転機が訪れました。1646年、広場の東側にリヨン市庁舎を建設することが決定されたのです。リヨンの商業活動の中心がソーヌ川の右岸(リヨンの旧市街地)からプレスキルへと移り、市庁舎の建つテロー広場が行政の中心となっていきます。

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■リヨン市庁舎の歴史

1462年まで、リヨンの市政を司る場所というのは特になく、古文書によればサン・ニジエ教会(Eglise Saint-Nizier)、サン・ジャケーム礼拝堂(Chapelle Saint-Jacquême)に市参事会員が集まり、現在でいうところの市議会が開かれていました。サン・ニジエ教会は現在もリヨン第2区に存在していますが、サン・ジャケーム礼拝堂はフランス革命時代に国有財産として売却され、1791年に取り壊されました。

市庁舎としての機能をもつ建物が登場するのは1462年になってからです。市参事会員たちは、リヨン市が1424年に購入した、サン・ニジエ教会の北側に面するフロマジュリ通り(rue de la Fromagerie)にあるシャルネ邸(maison de Charnay)に議会の場所を移しました。しかし、この建物は市庁舎としては小さすぎたため、リヨン市は1604年にルネサンス様式の瀟洒な建物、クーロンヌ邸(Hôtel de la Couronne)を買い取り、市庁舎として使用することにしました。クーロンヌ邸も次第に手狭になり、絹織物産業で発展を続けるリヨンの町を象徴するような立派な市庁舎が必要だという声が高まってきました。しかし、市庁舎を建設するに十分な資金がなく、市庁舎建設計画はなかなか進みませんでした。1646年、リヨン市は市庁舎として使用しているクーロンヌ邸を競売にかけ、その売却益を新市庁舎の建設費に充てることを決定します。新市庁舎の建設場所として、新たに土地を購入する資金がないこともあり、リヨン市がすでに所有していたテロー広場の東側が選ばれました。

クーロンヌ邸は現在「リヨン印刷博物館(Musée de l'imprimerie)」として利用されています。ルネサンス様式特有のアーケードや螺旋階段塔、外壁の美しい彫刻装飾が残されていますので、リヨンを訪問される機会がありましたら、お立ち寄りいただきたい場所のひとつです。「リヨン印刷博物館」についてのこちらの投稿も参考にしていただければうれしいです。

「フランス リヨンで、印刷の歴史を辿る」

■リヨン市庁舎の建設

1646年、広場の東側にリヨン市庁舎の建設が決まり、リヨンの建築家シモン・モーパン(Simon MAUPIN、不明-1668年)にその設計がゆだねられました。新市庁舎を設計するにあたり、モーパンはパリに赴き、国王付首席建築家のジャック・ルメルシエ(Jacques LEMERCIER、1585-1654年)や、建築家であり数学者として名を広めていたジラール・デザルグ(Girard DESARGUES、1591-1661年)にアドバイスを求めたそうです。

1646年5月8日、フランス王ルイ14世から設計図の承認を得て、同年9月5日、ルイ14世の誕生日という記念すべき日に「リヨンの栄光」と刻まれた礎石を据える定礎式(着工式)が行われました。

工事は数々のトラブルに見舞われ、建物の大枠が完成したのは1654年になります。内装はトーマ・ブランシェ(Thomas BLANCHET、1614-1689年)が担当し、1672年に工事が終了しました。着工から26年の歳月を要しました。リヨンの栄光の象徴として建設された市庁舎は、念願かなって、当時、ヨーロッパ有数の豪華な建物として話題になりました。

竣工から2年後、1674年9月13日、不幸なことに市庁舎は大火事に見舞われます。祭典の大広間や礼拝堂が焼失し、屋根が崩落しました。しかし、リヨン市には修復する資金がなく、25年後の1699年になって、市庁舎を修復することが決定しました。

ルイ14世の首席建築家でパリのヴァンドーム広場やロワイヤル橋を手がけたジュル・アルドゥアン=マンサール(Jules HARDOUIN-MANSART、1646-1708年)に設計をゆだね、1701年から1703年にかけて損傷した建物の修復が行われました。大広間は、モーパンの設計では大理石と石が使われていましたが、マンサールは彫刻を施した木板で覆い、歴代市長の肖像画で壁を飾りました。建物の外装は、彫刻家シモン・ギヨーム(Simon GUILLAUME)が、内装は、再びトーマ・ブランシェが担当し、建物正面のファサードは、彫刻家マルク・シャブリ(Marc CHABRY、1660-1727年)による「ルイ14世の騎馬像」で飾られました。

18世紀末、市庁舎は再び大きな被害を受けました。市庁舎を襲ったのは火事ではなくフランス革命です。1793年、革命軍により市庁舎が攻撃され、ファサードを飾るルイ14世の騎馬像が取り壊されました。

そして、市庁舎の中に反革命派を裁く革命裁判所が設けられ、有罪判決を受けた者はテロー広場あるいはベルクール広場でギロチンにかけられるという恐怖政治が台頭しました。

1803年7月14日、市庁舎は2度目の大火事に見舞われ、またしても祭典の大広間などが焼損しました。

1829年にルイ14世の騎馬像があったファサードに、ジャン=フランソワ・ルジェンドル=エラル(Jean-François LEGENDRE-HERAL、1796-1851年)が手がけたエンリ5世の騎馬像が置かれましたが、大きな修復工事は1850年になってからです。

1853年、ローヌ県の県知事にクロード・マリウス・ヴァイス(Claude Marius Vaïsse)が任命されました。ヴァイスはリヨン市長も兼任しており、県政および市政をリヨン市庁舎で行うことを望み、建物が劣化していたリヨン市庁舎の修復工事に取りかかります。リヨン出身の建築家トニー・デジャルダン(Tony DESJARDINS、1814-1882年)の指揮下で、ファサードは17世紀のマンサールの設計を再び採用し、本館は18世紀の新古典主義様式で新しい風を入れました。大階段の内装は、ブランシェの作品を可能な限り忠実に修復し、布クロスも17世紀の当時と同じものがリヨンの絹織物工房で複製されました。1854年から1869年の15年の歳月をかけて修復工事が行われ、現在の姿になりました。

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■リヨン市庁舎の内側

大階段(Escalier d'honneur)

楕円を描く螺旋状の階段は建築家であり数学者でもあったジラール・デザルグの作品です。天井や壁には1658年から1667年にかけてトーマ・ブランシェが手がけた絵画が複製されています。64年の「ネロ皇帝の治世中にラグドゥヌムを襲った大火災」の様子が描かれ、リヨン市庁舎の火災との闘いの歴史を象徴しています。

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祭典の大広間(Grande Salle des fêtes)

正面の大階段を登った最初の部屋になります。長さ26m、幅12mの広さで5つの窓が配され、テロー広場を一望できます。1674年の火事でブランシェ(1655年)の装飾は焼失してしまいました。火災後、マンサールによって修復工事が行われました。暖炉の上の銅製レリーフには、「ローマの武将ルキウス・ムナティウス・プランクスによるリヨン(ルグドゥヌム)創設」が描かれています。

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エンリ4世の間(Salon Henri-IV)

1652年、この部屋で市長や執政官の任命式が行われていました。ブランシェの肖像画の名前から、「エンリ4世の間」と呼ばれています。ブランシェの肖像画は失われました。天井画は太陽王ルイ14世の栄光を表現し、「王室に対するリヨンの永遠の忠誠心」(1671年)が描かれています。ブランシェはシンボルやアレゴリーを研究し、いたるところで用いています。

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紋章の間(Salle des armoiries)

リヨンの役人の肖像画で飾られていましたが、火事で焼失してしまいました。現在は、当時の役人の紋章が壁一面に飾られています(フレームは18世紀のものです)。

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執政の間(Salon du Consulat)

歴代市長が利用していた部屋です。ブランシェが内装を担当しました。天井は1659年から1660年の作品で、「リヨン執政の栄光」を表現し、暖炉の両隅を飾る彫像は、「慎重(Prudence)」と「哲学(Philosophie)」を象徴しています。

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保持の間(Salon de la Conservation)

1658年、リヨン物産市の特権を保持するための裁判に使われた部屋で、現在の商事裁判所にあたります。商事に関する係争は、王立裁判所ではなく、市の執政機関にゆだねられていました。天井画は1669年のブランシェの作品で、中央のメイダイヨンに「悪徳の陥落」が描かれ、その四隅に「善悪の区別(Distinction du Bien et du Mal)」、「誠意(Sincérité)」、「英知(Sagesse)」、「リヨンの天分(Génie de Lyon)」を意味するアレゴリーが描かれています。

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旧古文書室(Salle des anciennes archives)

アーチ型天井が中世の雰囲気を漂わせています。部屋の中央をニコラ・ルフェヴル(Nicolas LEFEBVRE)による豪華な暖炉(1652年作)が占め、ガラスボールが印象的なオランダ製のシャンデリアやフランス第二帝政時代の絵画が飾られています。

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紅の間(Salon rouges)

かつて市長の私邸として使用されていました。

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いかがでしたか。

リヨン観光局が市庁舎見学を企画しています。現在、新型コロナウイルスの影響で見学は中止になっていますが、ウイルスが落ち着き、リヨンを訪れる機会がありましたら、市庁舎見学をお楽しみください!

安全に安心して海外旅行に出かけられる環境が整い、リヨンにお越しいただける日を心よりお待ち申し上げています。

【リヨン市庁舎(HOTEL DE VILLE DE LYON)】

・住所: 1 Place de la Comédie 69001 Lyon France

・見学日: リヨン観光局サイトにてご確認ください

・見学時間: リヨン観光局サイトにてご確認ください

・見学所要時間: 1時間30分

・見学言語: フランス語

・入場料: 大人€12

・アクセス: 地下鉄A線「Hôtel de Ville - Louis Pradel」駅

筆者

フランス特派員

マダムユキ

リヨン在住20年以上。フランス各地の魅力を文化・芸術・建築・食を中心にお届けしたい。

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