ここはロンドン?インド?どちらでもない北アイルランドの都市「ロンドンデリー」

公開日 : 2022年02月11日
最終更新 :

冬休みに訪れたイギリスは北アイルランドの旅、エニスキレン(関連記事)で朝食をとり、かわいらしいお城を見たあとはちょっと不思議な名前の町「ロンドンデリー(Londonderry)」に移動しました。

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イギリスは17世紀半ばからイギリス東インド会社を通じて貿易を始めたり、19世紀には植民地化するなどインドとは古くから深い関係にあります。そのため、イギリスとインド(ニューデリー)両国の首都名を併せ持つ北アイルランドのロンドンデリーの「デリー」も、インドとなにか関係があるのかと思いきや...どうやら違うようです。

いわくつきの都市:名称論争

デリーとはインドのDelhi市とは違い、「オーク(カシの木)の森」を意味するアイルランド語の「doire」に由来したもので、スペルはDerryです。ロンドンの名称は、1600年にイギリス軍が当時まだアイルランド国だったデリー市に侵入、アイルランド国教会の教会とカトリックの修道院を破壊したのちの1613年、イングランド王ジェームズ1世の勅許状によりついたものです。

北アイルランドを含むアイルランドは、1541年にヘンリー8世がイングランド王でありながら、同時にアイルランド王でもあると自称して以来、実質的にイギリスの植民地と化していました。現北アイルランドのデリー市も、もともとの名は「デリー」だけでしたが、ジェームズ1世がプロテスタントであるイングランド人やスコットランド人を入植者としてこのデリーに送り込むため、「ロンドン」とデリーの前にくっつけ、新生都市「ロンドンデリー」として宣言しました。

当然ながら地元民からの反発はあり、このできごとはその後アイルランドがたどる、プロテスタント系とアイルランドで優勢なカトリック系による、暗く長い争いへと発展していきます。

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法的な名前はロンドンデリーですが、北アイルランドではどの呼称を使うかで、イギリス帰属支持派(unionist/loyalist)が多いプロテスタント系か、アイルランド土着の統一独立派(nationalist)が多いカトリック系(「デリー」を使用)かの帰属が分かります(参照:Wallenfeldt, Jeff. "Londonderry" Britannica 2022.)。とはいえ、やはり古くからある「デリー」の呼び方は根強く、プロテスタント系の間でもデリーの方が一般的なようです。

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公的な標識や説明文では両方を併記する場合が多いようですが、順番は大抵「Derry~Londonderry」とデリーが先に来ます。それでも繊細な事項なので、そもそもなにも知らなければ不思議なほど、現地ではこの両方の名を併記した看板などを見かけません。今回の訪問で唯一目にしたのは線路上にある駅名でしたが、駅舎にはどこにもその名は見当たらず、「Northwest Transport Hub」というのが駅の名前のようです。

城壁の町、またもや暗い過去

北アイルランド第2の都市であるロンドンデリーは城壁の町とも知られ、車を停めた駐車場横にはちょうど立派な壁や門があり、そこから見晴らしのよい景色を見ることができます。

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この壁は上記で述べたジェームズ1世の、ロンドンデリー命名時に入植者たちを防衛するために建てられたもので、アイルランドで唯一完全な形で残っている城壁ですが、ヨーロッパ全体としてもめずらしいほど良好な状態だそうです。

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城壁の「ビショップゲート」北側には、1633年に建てられたアイルランド史上初のプロテスタント(Church of Ireland)教会、「聖コラム大聖堂(St Columb's Cathedral)」があります。2022年2月現在コロナ禍のためか、聖堂内は昨年末同様閉鎖されたままですが、1688年から翌年まで続いたジェームズ2世(カトリック教徒)とウィリアム3世(プロテスタント教徒)による、イギリスの王位争いの場となってしまったロンドンデリーでは、このときに犠牲になった人たちが多数この大聖堂で眠っているそうです。

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戦いは105日間にもおよび、プロテスタントが多いこの町の住民はウイリアム3世を応援しその勝利に貢献しましたが、現場や人の被害は甚大でした。城壁通りには、いまでも当時使われた大砲がところどころに置かれており、歴史の暗部が随所に垣間見えます。

ハイ・レベルなスイーツが揃う「Nine Hostages Coffee Co.」

と、暗黒の過去にばかり目を向けず、ここで観光都市として魅力いっぱいの現在のロンドンデリーを紹介したいと思います。

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中心地に向かうにつれ、飲食店や小売店が多数広がりにぎわいを見せるロンドンデリー、特におすすめエリアはアイルランド色の濃い、ウイスキーの看板を掲げたバーやおしゃれなカフェ・レストランが揃うウォータールー(Waterloo)通りです。

濃紺色の外壁がセンスのよい「Nine Hostages Coffee Co.」は、持ち帰りだけかと思いきや、2階席もありボリュームのあるランチ・セットが楽しめます。

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チョコレート・タルトやシナモン・ロールにカップケーキなど、ランチ食同様ヴィーガン仕様も揃えたこだわりスイーツも想像を超えるおいしさでした。

◼️Nine Hostages Coffee Co.・住所: 2 Waterloo Street BT48 6HE, N. Ireland・アクセス: 電車Derry~Londonderryより徒歩約20分・営業時間:  月〜土曜日8:00〜18:00、日曜日9:00〜17:30・URL: https://www.facebook.com/9inehostagescoffeederry/

平和の架け橋

そして最後はこれを見ずしてロンドンデリーを去れない、というほど重要な位置づけとなった「平和橋(The Peace Bridge)」を渡ってきました。

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こちらはEUの援助で2011年に作られたものですが、フォイル(Foyle)川によって分断されていた東岸のプロテスタント地域と、西側旧市街地に多かったカトリックのエリアをつなぐ象徴的な橋として、いまやすっかり町のシンボルとなりました。

橋の中ほどで後ろを振り向くと、町の時計台や都会的な建物が美しく、左右を見渡すとちょうど夕陽が、どこまでも続くフォイル川のゆったりとした水面に輝き、幻想的な風景を描いていました。

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橋の開通式で当時の北アイルランド自治政府副首相、マクギネス氏が「デリーにおける新たな門出のシンボルとして、後世にまで引き継がれる遺産となることでしょう」と挨拶したように(出典:McGrath, Dominic. & McBride, Mike. "Londonderry Peace Bridge: Ten years of city's 'structural handshake''" BBC News NI Jun 2021.)、訪れたこの日も橋は、写真を撮るのに忙しい観光客や、ジョギングや散歩をする市民などが集い、おだやかな雰囲気に包まれていました。

そして意外にも、ロンドンデリーは今回の旅行でもっとも気に入った町だったので、北アイルランドの歴史を知るだけでなく、レジャー、グルメの観光地としてもぜひ訪れてみてほしい、おすすめの場所です。

筆者

イギリス特派員

パーリーメイ

2017年よりロンドン南部で家族と暮らしています。郊外ならではのコスパのよいレストラン、貴族の邸宅、城めぐり、海沿い情報などが得意です。

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