ジェノバVSヴェネツィア、世紀のライバル関係はいつまでも?

公開日 : 2019年03月12日
最終更新 :
筆者 : 浅井まき

前回の記事ではヴェネツィアをご紹介しました。近代化、産業化に邁進し経済的中心地のひとつとなったジェノバと、昔の面影を維持し、世界的観光地となったヴェネツィア。現在では全くカラーの違う2都市ですが、かつては強力な海洋共和国同士、激しいライバル関係にありました。

ライバル関係の始まり

中世イタリアの4大海港都市といえば、アマルフィ、ピサ、ジェノバ、ヴェネツィアです。最初に頭角を顕したのがアマルフィ、そのアマルフィを押さえて台頭したのがピサ。そしてピサとの死闘の末西地中海の覇権を握ったのがジェノバでした。一方のヴェネツィアはビザンツ帝国の支配下から徐々に力をつけ、東地中海を牛耳るようになっていきます。2国とも目指すところは同じ、アジアからもたらされる香辛料や絹、染料、薬品などの貴重な商品。商業覇権をめぐって必然的にお互いがお互いにとって目の上のたんこぶになっていきました。

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(コンスタンティノープルを攻略する第4次十字軍。ドメニコ・ティントレット画。ヴェネツィア、ドゥカーレ宮殿、大評議会の間)

ヴェネツィアが1204年の第4次十字軍を主導してビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルを征服した半世紀後、ジェノバはビザンツ帝国の亡命政権のひとつであるニカイア帝国皇帝ミカエル・パレオロゴスと結び、1261年にコンスタンティノープルの奪還を手助けします。その見返りに、ヴェネツィアが十字軍で手に入れた経済利権をそっくり手中にし、さらにコンスタンティノープルのペラ、ガラタ地区に"ほぼジェノバ"と言っていいような特権的な居住区を認められることとなりました。

この出来事は両国の敵対関係に火をつける決定打になりました。13世紀から14世紀にかけて、大きくわけて4回、ジェノバとヴェネツィアは激しい全面戦争を繰り広げます。

組織のヴェネツィアと個人プレーのジェノバ、じつは似た者同士?

ともに「静謐なる(Serenissima)」という二つ名をもつジェノバとヴェネツィアはどちらも商人の国。自由な経済活動を尊重し、権力の集中をアレルギー的に嫌う点では似た者同士です。ただし、互いにけん制しあいつつ、ヴェネツィアという国家のもと"公的"利益を最優先としていたヴェネツィアに対し、ジェノバでは徹底した個人主義のもと各閥族が互いに力で周囲を抑え込もうとした結果バランスが取れていたという点では大きな違いがあります。14世紀には両国とも終身ドージェを国家元首とする共和制を敷きますが、ヴェネツィアでは内紛というものがこれといってなかった一方、ジェノバでは常に内紛状態で、終身制がとられた2世紀の間ドージェの"任期"を満了できたのはたった4人だったとか...。

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(ヴェネツィアのドージェ、マリン・ファリエルは有能な人物であったが、権力の集中を目論んだため抹殺され、ドゥカーレ宮殿大評議会の間にある肖像画も黒く塗りつぶされている)

ジェノバ‐ヴェネツィア戦争は、実際の戦闘においては多くの局面でジェノバが優勢でした。内紛ばかりでまとまらないジェノバながら、こと対ヴェネツィアとなれば別で、有能な指揮者のスタンドプレーもあいまって東地中海のヴェネツィアの拠点を次々と攻略し、1298年のクルツォラの海戦では(人的、物的ダメージをみれば双方痛み分けといえるものの)数的有利にも関わらず大敗を喫したヴェネツィアは、しばらくこの敗戦を引きずって"ジェノバ恐怖症"から立ち直れなかったといわれるほど。ちなみに、このクルツォラの海戦で捕虜としてジェノバに連れていかれたヴェネツィア人の中にはマルコ・ポーロもおり、彼はジェノバの牢獄の中で「東方見聞録」を口述しています。

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(ジェノバ、サン・ジョルジョ宮にある記念プレート。マルコ・ポーロはこの宮殿の牢獄に幽閉されていたとされる)

戦いでは連戦連勝を挙げていたジェノバですが、戦争の後には戦費の回収をめぐって揉めに揉めるのが毎度のこと。その混乱に乗じてヴェネツィアは少しずつ拠点を回復していき、元の木阿弥に戻るという流れの繰り返しでした。

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(あのブロンズの馬を...)

2国の最後の直接対決となったのが1379‐80年のキオッジャの戦いです。ジェノバはヴェネツィアの目と鼻の先にあるキオッジャを攻略。水陸から包囲し、ヴェネツィアをギリギリまで追いつめます。ヴェネツィアはカルロ・ゼン率いる補給隊が間もなく帰還するという一縷の望みを持っていたものの、いつ来るかわからない状況ではなすすべなく和解を申し出ますが、ジェノバ側は「あのブロンズの馬を持ち帰るまで応じない」と突っぱねます。

ヴェネツィアのドージェ、コンタリーニがいよいよ降伏に踏み切ろうとしたそのとき、待ち焦がれた補給隊が帰還し、戦況は逆転。ヴェネツィアの勝利に終わるという非常にドラマチックな展開となりました。この戦い以降、東地中海にはより強力なオスマン・トルコが進出してきたこともあり、両国の直接対決は起こっていません。しかし、潜在的なライバル意識は常に持ち続けていたようで...。

ヴェネツィアのカーニバルに対抗せよ!ジェノバの"らしくない"挑戦

"祝祭都市"との異名ももつヴェネツィアは、とにかくお祭りに気合を入れている都市として昔から有名でした。その最たるものがカーニバルで、仮面をつけ仮装をして街を練り歩きお祭り騒ぎをするという風習は16世紀には既に有名だったそうです。それに参加すべく人が集まるのも当時からで、ジェノバとしてはあまり面白くありませんでした。

もともと、ジェノバはお祭りにあまりお金をかけず地味に済ませてしまうお国柄。カーニバルも本来は競走など多少のイベントがあるという程度の地味なお祭りでした。16世紀末、ヴェネツィアのカーニバルに対抗すべく、貴族や識者らの主導により行われるようになったのが「カッロセッツォ(Carrossezzo)」というイベントです。仮面をつけ着飾った人々がパレードを行い、ロッリの屋敷で豪勢なパーティを行うというイベントは当時大評判となりますが、ジェノバ共和国なきあと19世紀半ばには廃れてしまい、現在では小さなイベントが残っている程度となっています。

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(2017年に行われたカッロセッツォ)

今でもライバル?

先述のとおり、現代ではジェノバとヴェネツィアは全く性質の異なる都市で、対抗するような点も特にない...ように見えます。しかし、ジェノバの人と話しているとやはりどこかで意識しているところがある様子が垣間見えます。

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現在、両国が争う数少ない機会が毎年開催される旧海洋共和国対抗のレガッタ大会。アマルフィ、ピサ、ジェノバ、ヴェネツィアの4都市が手漕ぎボートの競争を行うイベントですが、やはりというか、日頃からボートで生活しているヴェネツィアが有利のようで、圧倒的な優勝回数を誇っています。ただし一昨年はジェノバが優勝し、ジェノバで行われた昨年はゴール直前でアマルフィに優勝をさらわれたものの、ジェノバは2位を記録。しかしジェノバっ子にとって最も重要なのは"ヴェネツィアに勝った"ということのようで、「見た?ヴェネツィアなんかウチに全然追いつけなかったんだったんだぞ」と嬉しそうに話す人々の姿が見られました。

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