とにかく「濃い」のだ
インド住んで、早4年目突入。
つくづく思うのは、インド及び、インド人って「濃い」!
ファーイーストな私達日本人が格別に「薄い」のかもしれないのですが、それにしてもです。
まず、
1.顔が濃い。
これ以上は彫れないです、というくらいに顔の彫が深く、似顔絵を書く場合は非常に書きやすい。特徴が出やすく、また独特の特徴がある場合は「これが俺の顔の特徴だぁ!」と叫ぶが如くに、思い切り特徴がある。
そっくりな親子の、その「そっくり度合い」も、見ると吹き出しそうになるほど。DNA判定など持ち出さなくとも「見まごう事なく、親子である」のが一目で分かる。
2.目が濃い
その目の形のハッキリしている事、小刀で彫った如くである。アーモンド形にクッキリと「目です!」という感じで目があり、二重の「二重度合い」も、私のような「朝のむくみによっては一重にもなり得る」中途半端なものではない。二重の、ヒフが重なっている部分は、一度も陽を浴びた事がないんじゃないか、と私は疑っている程である。
見つめられると、その濃い眼力により、慣れない私たちはタジタジ。
そしてその二重に乗っかっているマツ毛。ポンポコリン腹で禿げてしまったようなおじさんにまで、まつ毛だけはク・ル・リ・ン♪とあるものだから、こちらとしてはついそれが気になってしまう。
3.体毛が濃い
どうしてこんなにも暑いのに、あんな体毛に覆われているのか。暑くはないのか?と聞いたところ「暑いよ」と返ってきた。うん、暑いだろうね・・(オチがない!)。それくらいの胸毛具合である。なにしろ、私の知っているインド人は昼に食べたポップコーンのカケラが夕方まで胸毛にはさかっていた程。
4.気候が濃い
なんとかしてもうちょっと、優しい気候になってはくれないだろうか。暖かな太陽とか、陽だまりとか、そよ風とか、頬をなでる風とか、しとしと降る雨とか、そういった感じの・・。
ここでは、太陽は放射能かと思うほどで、「陽だまり」を文字通りに「日光がたまっている場所」と解釈するならば、そこでは目玉焼きが絶対に焼ける。いや、焦げる。風はいつも風塵満載、頬を優しくなでるどころか、私の頬のシワを増やすことしかしない。雨にいたっては、「水が落っこちる」と言ったほうがよく、降ればドロだらけになる事はセット。まぁ、これだけ汚れた街を浄化するには、シトシトでは間に合わないのかもしれないが。
5.味が濃い
「素材の味を生かして・・」などといった言葉とは完全に無縁。ハッキリ言って、インド料理で「素材の味」を感じた事はない。ちなみに「歯ごたえ」というものにも頓着がない。これでもか!という程に火を通してしまうからだ。そして、油、マサラ(スパイス)を入れまくり、チリや塩もドッバーッっと!「素材の味」は遥か彼方の涅槃へ。
インドには「すまし汁」とか、「ほんのりダシを効かせた何とか」とか、「隠し味」といった”微”なものを”味わう”という文化はない。
そして食後のスウィーツ。スウィーツのことをミターイー(Mithaai)というのだが、これがまた、衝撃的に濃い甘さ。どうも見ていると彼らは、辛ければ辛いものを食べた時ほど、ミターイーを欲しがる。つまり反動。それほどの濃い味を食べた後なのだから、甘さも同レベルに濃くなければいけないのだ。
こんな私でさえ、インドで日本のお菓子を食べると「しょっぱ味が足りない・・?」「甘さが薄い・・?」なんて思う事がある。それほどに、この国の食べ物の味は濃い。
6.嫉妬も濃い
インド映画を見て欲しい。その嫉妬感情、こわい。もう、魔物に化す寸前といったところだ。そもそも、日本だったら明らかに「ストーカー行為」と見なされる諸々の挙動が「とっても好き。とっても愛している」という解釈で描かれるところがものスゴイ。電信柱の影から隠れて見る、なんて当たり前。跡をつけたり、追い回したり、曲がり角で待ち伏せすればする程、「より愛している」という事らしい。
失恋した時の「絶望度」はジェットコースターの急降下も真っ青、その一件で20歳やそこらの主人公がいとも簡単に人生を棒に振ってしまう。裏切られた時なんかは、そのトバッチリでなぜだか村人の大半が死んだりする大顛末に発展。
7.思い込みが激しい(濃い)
頑固とも言える。よく言われるように、日本人が「とらえどころがなく、熱しやすく冷めやすく、いとも簡単に移り変わっていく国民性」なのならば、インド人はその逆。
映画を見ていても、些細な思い込みが多大な悲劇を招くストーリーはお決まりのコースだ。彼らにとっては「些細」ではないのだが。
一方でインド人は非常に「いいかげん」もしくは「おおらか」、「ちゃらんぽらん」もしくは「キツキツしていない」ような点もあるのだが、かと思えば、化石とみまごうような石頭を持ち合わせており、「柔軟さ」を欠く事、山の如しである。
8.執着が濃い
これは嫉妬や思い込みの「濃さ」と関連していると思うのだが、テレビ番組を見ていても、歌の歌詞を聞いていても、連日のニュースを見ていても、執着の濃さが気になる。その執着が、それと「共存」できない程に濃いからこそ、ブッダあたりが「執着を手放す」だなんていう極端な事を言い出したんじゃないだろうか。執着も適度ならば、執着の存在をわざわざ意識しないで自然に過ごせるんじゃないだろうか、なんて考えてしまう。
※ ※ ※
「聖と俗の国」、「光と影の国」、「全てを受け入れる母なるガンガー(ガンジス河)と徹底した身分制度による差別が今だにはびこる国」など、インドに対してこれまで使われてきた形容はたくさんありますが、その形容にはいつも、相反した2つの事柄が同時に存在しています。これ、あの「濃さ」がポイントなんじゃないかと思うんです。
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