ベルリンを歩くPart 4: 1冊の本を携えて負の記憶をたどる旅②

公開日 : 2018年02月04日
最終更新 :

観光地再発見の旅⑬-8

1冊の本"「ホロコーストの記憶」を歩く-過去を見つめ未来へ向かう旅ガイド(石岡史子・岡裕人 著)"がきっかけで、今までとはちょっと違ったベルリンに出会った今回の旅、前回に引き続きそんなベルリンの町歩きレポート第2弾です。

空っぽの図書館/ベーベル広場

Bebel Platz 3.JPG

詩人ハインリッヒ・ハイネが戯曲『アルマンゾル"Almansor"』に残した警告の言葉

"Das war ein Vorspiel nur, dort wo man Bücher verbrennt, verbrennt man am Ende auch Menschen."

ベーベル広場には、詩人ハイネのこの言葉を記したプレートが埋められています。

「書物が焼かれるところでは、いずれ人間も焼かれるようになる」

(前略)

ハイネは戯曲『アルマンゾル』(1823年)の中で「これは序章に過ぎない。書物が焼かれるところでは、いずれ人間も焼かれるようになる」と書き残した。その後を予言した言葉が、ベルリン焚書の警告板に刻まれている。

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ブランデンブルク門から東へ伸びる大通りウンターデンリンデン"Unter den Linden"のベルリン大聖堂(写真中央奥緑のドーム)の手前に大きな広場(写真右)があります。

地図で見てみると位置関係が良く分かります。

私たちが滞在していたホテル、ラディソンブルーホテルから真っ直ぐブランデンブルク門へ向かって歩いて行くと、シュプレー川を渡ってすぐ、右手に大聖堂が、さらに進むと、左手に大きなローマ・ギリシャ風ファサードの建物が見えてきます。 この建物が国立歌劇場、オペラハウスです。

国立歌劇場のすぐ横には、三方を大きな建物に囲まれた広々とした空間がぽっかりと空いています。 そこがベーベル広場"Bebelplatz(ベーベルプラッツ)"です。

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空っぽの図書館(焚書追悼記念碑)

"Bibliothek(Denkmal zur Erinnerung an die Bücherverbrennung)"

1933年5月10日学生たちによる「非ドイツ精神に反対する行動」の集大成として、ドイツ精神にそぐわないとされた書籍・書物がここベーベル広場の中央で焼き払われた。 空っぽの図書館はその焚書事件を象徴し、忘れないためのもの。

ベーベル広場のどこに、過去の負の記憶を忘れないための記念碑があるかというのは、広場をちょっと眺めていればすぐに分かります。 だだっ広い広場の一箇所に人が集まって下を向いて何かを見つめている様子。 

手に折りたたみ傘などの目印を持った欧米のツアーガイドさんが説明をしています。

皆、ガラス越しに本の入っていない空っぽの本棚(写真上)を見ながらガイドさんの説明に耳を傾けているのです。

私たちが訪れた日は小雨の降るどんよりとした日だったので、ハイネの言葉を記したプレートやこの空っぽの図書館が、ことさら悲しげに訴えかけてくるようでした。

記憶の現場/バイエルン地区(バイエルン広場)

今回の旅でどうしても行ってみたかったところが、グルーネヴァルト駅に次いでここバイエルン広場でした。

本で紹介されていた、市民の働きかけで生まれたという「記憶の現場」プロジェクトをこの目で見てみたかったからです。

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Uバーンのバイエルン広場"Bayerischer Platz(バイエリッシャー・プラッツ)"(U7とU4)が最寄り駅になります。

前述したプロジェクトにより、バイエルン地区の通りのあちこちに過去の記憶を忘れないための警告の看板が設置されています。 警告の看板と言ってもドイツ語を知らなければ、「何だろうこれ?」と不思議に思うくらいで通り過ぎてしまう小さな看板です。

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この一見「なんでこんなところにステッキの絵?」と思うだけで通り過ぎてしまいそうな看板なのですが、その1つ1つの絵の裏側には、ユダヤ人の生活を取り締まる反ユダヤ法の1つが書かれています。

「混雑時にはユダヤ人は公共の交通機関を利用してはならない。 ユダヤ人は他の乗客が立っていない時以外は座ってはならない。」(1941年9月18日)

もう少しクローズアップしてみてみましょう。

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公園にあるもので、日常生活の中でよく目にするものですね。

「こんなもの、なぜわざわざ看板に描かれてるんだろう?」と不思議に思います。

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「ユダヤ人はバイエルン広場の黄色い印のついたベンチのみを使用できる。」

(1939年)

製作者のフリーダー・シュノック氏は、「平穏な住宅街に溶け込ませると同時に、看板の表裏のアンバランスによって、見る人の心により印象深く、当時の記憶を刻みつけようとした」と語る。そして、ユダヤ人への差別や迫害は日常生活の中で始まっていったことを伝えようとした。

本に掲載されていた猫の看板を探したのですが、結局見つけることができませんでした。 本当にたくさんの看板が至るところにある証拠ですね。 看板があるということは結局それだけ多くの法令があったということですから恐ろしくなります。

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バイエルン広場に、看板が置かれた場所が赤丸で記された看板マップがあります。

本当にその赤丸の多さに驚かされます。

どこにその看板があるかは記されていないので、あまりの多さに目的の猫の看板を探し回ることを断念したくらいです。

ちょうど二手に分かれて歩き回っていたら、私はこんな看板に出会いました。

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Y字型のハバーラント通り"Haberlandstr.(ハバーラントシュトラッセ)"にあった看板です。

「通り名にユダヤ人の名前を使用してはならない。バイエルン地区の創設者に由来するハバーラント通りは、トロイヒトリンガー通り"TreuchtlingerStraße"とネルドリンガー通り"NördlingerStraße"に改名する。」

とあります。

この通りには、アルバート・アインシュタイン"Albert Einstein"がアメリカへ亡命する直前まで住んでいました。

たまたまこの道の看板を見つけてこちらの案内板を見つけた訳ですが、意識していなかったので気付かないで通り過ぎてしまっていたかもしれません。

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1917年~1932年の間、当時のハバーラント通り5番(現8番)に、有名なアインシュタインが住んでいました。

アインシュタインは1879年3月14日にウルムに生まれ、1955年4月18日にアメリカ、ニュージャージー州、プリンストンで没しました。

ここに住んでいた当時、チャーリー・チャップリンやフランツ・カフカなどの著名人もゲストとしてここを訪れていると書かれています。

1932年12月に旅行で渡米したアインシュタインですが、その直後1933年1月30日からナチ党の勢力が増して行きます。 アインシュタインは、それ以来2度とドイツに戻ることは無かったということです。

生活の中に溶け込んでいる看板ですが、実際に足を運んでみるとその多さからもやはり異質な感じです。 そしてドイツ語が少しわかると、裏側の異様な文面に驚きます。 こういう形で、恐ろしく忌まわしい法令への注意を喚起しているということに感心しました。

「未来へ負の記憶を残す形としてこういう方法もあるのだなぁ~」と、しかも住民からのの強い要望で実現したプロジェクトと聞くと、「こういうところドイツ人はスゴイなぁ~」と思います。

皆様もベルリンを訪れる機会があれば、実際に足を運んで感じてみませんか?

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