4月25日『カーネーション革命』の日をポルトで迎えて。

公開日 : 2018年05月17日
最終更新 :
筆者 : Yuka

みなさんこんにちは、ポルト特派員のYukaです。

5月も半ばに入り、日が伸びてきて最近は20時半ごろまで外が明るくなってきました。

まだ外が明るいうちに夕飯を食べるのは不思議な感じがします。

さて少し日が経ってしまいましたが、先月4月25日はポルトガルにとって大切な祝日でした。

というのはさかのぼること44年前、1974年4月25日はポルトガルで独裁政権を終わらせた『カーネーション革命』が起きた日だからです。

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この革命について簡単に紹介します。

1932年、当時財務大臣であったアントニオ・デ・オリベイラ・サラザールは世界恐慌による危機から国を立て直し、首相に就任しました。

ここから「エスタド・ノヴォ(新体制)」と呼ばれる独裁体制が始まります。

サラザールはファシズムにのっとり、秘密警察によって反体制運動を弾圧、厳しい検閲や植民地支配を続けました。

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↑リスボンにある「4月25日橋/Ponte 25 de Abril」は1966年に開通し当初は「サラザール橋」と呼ばれていました。

1968年サラザールが病に倒れると、後継者としてマルセロ・カエターノが選ばれましたが独裁体制や植民地支配は継続されました。

1970年サラザールは亡くなりますが一説によると死因はハンモックからの落下と言われています。

1974年4月25日、アフリカでの植民地支配を本国でも批判する声が強まり、植民地解放を掲げたアントニオ・デ・スピノラ将軍が指揮する「国軍運動(MFA)」によるクーデターが首都リスボンで起こりました。

クーデターの開始は当時検閲で禁止されていた歌、ゼカ・アフォンソによる「グランドラ・ヴィラ・モレーナ/Grândola, Vila Morena」がラジオで流れたことが合図となり、ほぼ無血の革命がなされました。

市民たちは革命を喜びカーネーションの花を革命軍兵士たちへ渡し、彼らが銃口にカーネーションを挿したことからこの革命は『カーネーション革命』と呼ばれるようになりました。

先月4月24日の夜、ポルト中心地のアリアードスの広場で革命をお祝いするコンサートがあり、実際に見に行ってきました。

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↑広場にはたくさんの人が集まりました。

コンサートでは革命の合図となった歌「Grândola, Vila Morena」も歌われ、集まった人も一緒に歌っていたのが印象的でした。

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↑0時には花火も打ちあがりました。

4月25日には今日でも街中でカーネーションが売られます。

この革命についてより詳しく知りたい方は「Capitães de Abril」(英語名:April Captains)という『カーネーション革命』について描いた映画を見るのおすすめします。

国軍運動の創設メンバーの一人、サルゲイロ・マイア大尉をテーマにした映画です。

英語が見つからなかったのでポルトガル語しかないのかもしれませんが、革命の雰囲気が良くわかる映画です。

また余談ですが、ポルトガルではキッチン用品のゴムベラのことを「サラザール」と呼びます。

というのはサラザールが独裁政権時代に唱えていた「質素・倹約」の考えが、ゴムベラの鍋に残ったものを最後までしっかり取り切るという役割に合っているからだそうです。

日常の単語にサラザールという言葉が紛れているのは面白いですね。

ポルトガルで起きた『カーネーション革命』がいかに国にとって大切な出来事であるのかが実感できた4月25日でした。

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