日本最古の仏教寺院・飛鳥寺

公開日 : 2018年06月21日
最終更新 :
筆者 : 大向 雅
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飛鳥寺(あすかでら)は蘇我(そが)氏の氏寺として、飛鳥時代に創建された、日本最古の本格的仏教寺院です。

その縁起については諸説ありますが、日本書紀では第三十一代・用明(ようめい)天皇の御代、587年に蘇我馬子(そがのうまこ)が建立を発願したと書かれています。

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その当時、大臣(おおおみ)として絶大な政治権力を持ち、外来の仏教を積極的に日本に取り入れようとしてきた渡来系一族の蘇我氏の長であった馬子は、天照大神の血統であり日本古来の神道を重んじる物部氏(もののべし)の長であった守屋(もりや)と対立していました。そして馬子は守屋との戦いに勝つための祈願をすべく「諸天と大神王の奉為(おほみため)に寺塔(てら)を起立(た)てて、三宝を流通(つた)へむ」と誓願し、飛鳥の地に寺を建てることにしたと書かれています。

ちなみにこの有名な石舞台古墳は、蘇我馬子のお墓の石室がむき出しになったものと云われています。

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その後、推古天皇元年(593年)になり法興寺の刹柱(塔の心柱)の礎の中に仏舎利を置き、推古天皇13年(605年)には「丈六仏像各一躯」の造立を誓願し、鞍作止利(くらづくりのとり)を造仏工とした」「銅と繍の丈六仏像は推古天皇14年(606年)に完成した」と書かれています。こうして年代を追っていくと発願から仏像の開眼まで19年もの年月がかかっていることが分かります。

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そして、この日本書紀に記された仏像こそが、現在本堂に安置されているこちらの釈迦如来像そのものなのです。創建時には、同じ止利仏師が手がけた法隆寺の御本尊と同様に三尊形式だったそうですが、長い年月の間に幾多の災難に遭われて、現在は両脇侍像は失われてしまっています(ただし台座に脇侍のための穴だけは存在)

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ご覧の通り、お像は鎌倉時代の落雷による火災でお堂もろとも、かなりの損傷を受けてらっしゃいます。

1933年の調査では頭の上半分、左耳、右手の指数本は鋳造後に銅の表面に研磨仕上げがされていることからオリジナルであると判明していますが、大部分は後世に補修されており、脚部は銅の上に粘土で衣文を作られ、左手は木製になってしまっています。

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このように、少々後補が多いために学術的には国宝ではなく、重要文化財に甘んじているわけですが、このお像は創建時に台座に安置されて以来、1400年もの年月を一度も移動することなく同じ場所に座り続けておられ、国家の安泰はもちろん、さまざまな衆生の悩みや願いを受け止め下さっているお姿を現在も変わらず観られるなんて、国宝級に有難いことだと思います。

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推古(すいこ)天皇や聖徳太子、蘇我馬子などが見ていたものが、先人たちの血の滲むような努力のおかげで現存しているなんて、本当にプライスレスな感動を与えてもらえるのが、奈良の良いところですね。

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