「ガラシャ」を思う紫陽花・勝竜寺城
《紫陽花咲く勝竜寺城》
長岡京市の勝竜寺城です。
戦国時代において、勝竜寺城のある長岡京市辺りは、京都防衛の拠点として
重要視されていました。
現在の勝竜寺城は、足利尊氏の命により細川頼春によって、暦応2年(1339)に築城された勝龍寺城跡を再整備し、
平成4年に都市公園の「勝竜寺城公園」として作られています。
そしてここは、細川忠興・細川ガラシャ(明智光秀の娘)夫妻ゆかりの城としても有名で、
園内には2人の像が建てられています。
また「日本の歴史公園100選」にも選ばれ、地域に愛されるスポットとなっています。
六月半ばの今、園内では紫陽花が見頃を迎えています。
お城の前の通りは「ガラシャ通り」。
通り名は、細川ガラシャの花嫁行列が通ったことが由来のようです。
勝龍寺城は、明智光秀の娘であり、細川忠興の正室でもあった「細川ガラシャ」(1563~1600年)が
幸福な新婚時代を過ごした所です。
勝竜寺城の建物の中は、1階は休憩室、2階は展示室になっています。
展示室では、勝龍寺城跡の発掘の様子や出土品の展示など、様々な勝龍寺城の資料を見ることが出来ます。(無料)
2階に展示されている屏風絵からは、
玉お輿入れ(嫁入り)の様子が伺えます。
《玉からガラシャへ》
◇1563年。
明智光秀の三女としてガラシャは生まれました。
名は玉(珠)もしくは玉子(珠子)と言います。
◇1578年。
織田信長のすすめにより、16歳で勝龍寺城城主・細川藤孝の嫡男・忠興に嫁ぎました。
忠興と玉は美男美女のほまれ高く、似合いのカップルだったと言われています。
夫婦仲も良く、3男2女に恵まれました。
◇1582年。
父・明智光秀が本能寺の変を起こし、山崎の合戦で豊臣秀吉に敗れると、
秀吉に遠慮した夫の忠興によって幽閉されます。
◇1584年。
秀吉の計らいで忠興と珠は復縁し、忠興のもとに戻ります。
◇1587年。
キリスト教に入信。
ガラシャの洗礼名は、その時から。
◇1600年。
関ヶ原の戦いに際し、石田三成から人質として大坂城に入ることを強要されますが
承知せず、家老の小笠原小斎に胸を突かせて、亡くなられています。
細川ガラシャさん。才にも文にも長けた、美しい女性だったそうです。37年の短い生涯でした。
ガラシャの壮絶な死は、石田三成にも衝撃を与えました。
この事件があり、彼は諸大名の妻子を集めて人質とすることをやめたそうです。
一方、忠興は妻の死を深く悲しみました。
細川ガラシャ。
辞世の句は・・・・・
「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」
418年の時を越えて 心に響く言葉です。
《長岡京ガラシャ祭》
長岡京市では、毎年11月に「長岡京ガラシャ祭」が行われています。
「長岡京ガラシャ祭」では、明智光秀の娘・玉(のちの細川ガラシャ)が細川忠興に
輿入れ(嫁入り)する様子を再現した「お輿入れ行列」や、古墳時代から江戸時代までの有名な
歴史の人物が登場する「歴史文化行列」、「町衆祝いの行列」など様々な人が勝竜寺城公園に向けて練り歩きます。
《勝竜寺城》
〇 所 京都府長岡京市勝竜寺13-1
〇 お休み 毎週火曜
〇 料金 無料
〇 アクセス JR京都線「長岡京駅」から南へ徒歩10分
〇 周辺の見所 長岡天満宮 光明寺 楊谷寺 恵解山古墳
筆者
京都特派員
Akio
京都は平安京の頃から、今に至るまで様々な歴史が残っている町。歴史と季節を訪ねながら京都特派員ブログを、綴って行ければと思います。
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